当エントリーでは、デヴィ夫人の旦那で初代大統領のスカルノから、現在、大統領を務めるジョコ・ウィドドまでの歴代大統領7人、全員をザックリと紹介していきます。
7人の大統領を見ていくと、以下の2つの特徴が見受けられます。
特徴1
インドネシアでは、1945年の独立後から現在に至るまでの75年間、たったの7人しか大統領に就任しておりません。
同期間に、31人もの歴代内閣総理大臣が就任した日本や、基本的に安定した長期政権を築くアメリカ合衆国(大統領在任中に暗殺されたジョン・F・ケネディが戦後最短の2年10ヵ月という就任期間)ですら、インドネシアの倍近い13人が大統領に就任しています。
特徴2
多様なバックグラウンドを持つ者の活躍が目立つ
という2つの特徴があります。
それでは、7人の歴代大統領について、見ていきましょう。
初代大統領:スカルノ(1945年-1966年)
本名:Soekarno(スカルノ)
生年月日:1901年6月6日生まれ、1970年6月21日に69歳で死去
出身地:オランダ領 東インド スラバヤ
任期:1945年8月18日-1967年3月12日
政党:インドネシア国民党
副大統領:モハマッド・ハッタ
配偶者:
第1夫人 ファトマワティ
第2夫人 ハルティ二
第3夫人 デヴィ(デヴィ夫人)
前職:独立運動家
1901年にスラバヤでバリ人貴族の家庭に生まれました。そのため、ヒンドゥー教徒です。
バンドン工科大学卒業後、オランダに対する反植民地運動を開始し、禁固刑や流刑を経験するも、太平洋戦争が勃発すると日本軍がオランダ軍を放逐
それに伴って、第16師団の今村均によって、オランダ植民地政府によって囚われていたスカルノや、後の副大統領となるハッタも釈放されました。
スカルノは「民衆総力結集運動」を組織し、独立のために日本軍に協力し、連合国軍と戦うことを決意しました。
ちなみに、スカルノとハッタは1943年に日本へと訪問し、昭和天皇と面会したそうです。
その後、1945年8月15日に日本軍が連合国軍に降伏した2日後にスカルノとハッタの2人が「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言しました。
しかし、これに対しオランダが反発、イギリスやオーストラリアの助けを受けて軍を派遣したことにより、インドネシア独立戦争が勃発します。
そして、やっとの思いでオランダからの独立を確実なものにしました。
その後の功績としては以下のものが挙げられます。
・1955年:アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を行い、「第三世界のリーダー」の1人として脚光を浴びるようになります。
ここで、世界平和と協力の推進に関する宣言(正式名称:バンドン十原則)を宣言します。
- 基本的人権と国連憲章の趣旨と原則を尊重
- 全ての国の主権と領土保全を尊重
- 全ての人類の平等と大小全ての国の平等を承認する
- 他国の内政に干渉しない
- 国連憲章による単独または集団的な自国防衛権を尊重
- 集団的防衛を大国の特定の利益のために利用しない。また他国に圧力を加えない。
- 侵略または侵略の脅威・武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立をおかさない。
- 国際紛争は平和的手段によって解決
- 相互の利益と協力を促進する
- 正義と国際義務を尊重
という平和十原則を日本や中国などを含む29ヵ国の参加国で制定しました。
・1959年:日本の商社「東日貿易」からの紹介を受けて、デヴィ・スカルノを娶ります。
・中国との友好関係を築く:1964年の核実験に成功し、アジア初の核保有国となった中華人民共和国の毛沢東はスカルノ政権に対し、核開発の支援を申し出るほどまでの蜜月ぶりとなりました。
そして、1965年に9月30日事件がおきます。
当時、勢力を拡大しつつあったインドネシア共産党を支持基盤とし、スカルノは親共路線に傾倒するようになっていました。それに対して、後の第2代大統領であるスハルト陸軍少将(当時)ら国軍主流派は危機感を抱くようになりました。
そして、その後、大統領親衛隊長ウントゥン中佐が率いる左派系軍人が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するという軍事クーデターが発生しました。
スハルトはスカルノ大統領から事態を収拾するための権限を付与され、速やかに鎮圧しました。
10月16日に陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任したスハルトは、事件にかかわった共産党の指導者・一般党員・共産党との関係を疑われた一般住民を大虐殺し、親共グループの壊滅を図りました。
20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人前後が殺害されたとの事ですが、現在も正確な数字は解明できていないそうです。
「ソロ川の血が赤く染まった」と言われるほど凄惨なものだったそうです。
2012年公開(製作:イギリス・デンマーク・ノルウェー)のドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』は9月30日事件を追った作品であり、この虐殺に関わった者たちに取材をし、再現VTRを本人たち演じさせて撮影した異色の映画となっています。
この映画を観たデヴィ夫人は大絶賛し、「9月30日事件の真実を明らかにし、夫の汚名をそそいでくれた」と、監督のジョシュア・オッペンハイマーに感謝の意を表しました。
筆者もAmazonプライム・ビデオで『アクト・オブ・キリング』を観ましたが、歴史ドキュメンタリー映画なのにも関わらず「ホラー映画よりも恐ろしい」と感じました。
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そして、若干脱線してしまいましたが、9月30日事件終息後に話は移ります。
インドネシア国内で反共産主義の風潮が強まり、以前は自身の支持基盤としてそれを贔屓していたスカルノは辞任要求の圧力に屈し、スハルトに実権を移しました。
小話:スカルノ大統領は非常にモテた
スカルノ大統領と最後まで婚姻関係を結んでいたのは、ファトマワティ、ハルティ二、そしてデヴィ夫人の3人です。
しかし、実際には離婚した女性たちを含めれば、9人の妻がいたとのこと。
多い時には、一度に5人の妻を抱えていたとか。
革命家チェ・ゲバラなどもそうですが、自分の理想を実現するために、強大な敵に対して恐れることなく立ち向かう男というのは、非常に女性にモテるのですね。
第2代大統領:スハルト(1967年-1998年)
本名:Soeharto(スハルト)
生年月日:1921年6月8日生まれ、2008年1月27日に86歳で死去
出身地:オランダ領 東インド 中部ジャワ州 ジョグジャカルタ近郊 ゴデアン村
任期:1967年3月12日-1998年5月21日
政党:ゴルカル
副大統領:ハメンクブウォノ9世、アダム・マリク、ウマール・ウィラハディクスマ、スダルモノ、トリ・ストリスノ、バハルディン・ユスフ・ハビビ
配偶者:シティ・ハルティナ・スハルト
前職:陸軍少将
スカルノの辞任により大統領に就任したスハルトは、外交方針を大きく転換し、これまでとは反対の親米・反共(反中華人民共和国・反ソビエト連邦)という路線になりました。
1967年にASEAN(東南アジア諸国連合)を創設し、同事務局をジャカルタに誘致するなど近隣の東南アジア諸国との関係構築に重きを置きました。
スマトラ島北西部のアチェ独立運動に対する弾圧や、東ティモールの強制的な併合に加え、民主化運動の活動家らに対する監禁・拷問、体制に批判的なマスコミの弾圧、各地で明るみに出た虐殺事件などなど、海外からの強い批判を受けるようになりました。
このような強権体制のなかで、開発独裁政権として同国の工業化を推し進め、目覚ましい経済発展を遂げました。
しかし、1997年7月にタイを中心としたアジア通貨危機が始まります。
これは日本や台湾などを除く、アジアの多くの国が自国の為替相場を米ドルと連動させる固定相場制(ドルペック制)を採っていました。
アジアの国の多くは輸出需要で経済成長していた最中、1995年にアメリカ合衆国が経常収支赤字下の経済政策として「強いドル政策」採用、それに伴って必然的にアジアの通貨も上昇し、輸出が伸び悩むようになりました。
そこに目を付けたのがアメリカを中心とした欧米のヘッジファンドです。
アジアの経済状況と為替レート評価にズレが生じていることに気が付いたヘッジファンドや機関投資家たちが空売りを仕掛け、買い支えることが出来ないアジア各国は変動相場制を導入せざる負えない状況に追い込まれ、通貨価格が急激に下落しました。
これにより、タイ・インドネシア・韓国の3ヵ国はIMFの管理下に入ることとなりました。
こうした事態に陥ったものの、スハルトは経済の不況を立て直すことが出来ずに、国民の不満は爆発
30年以上、就いていた大統領の座を当時の副大統領であったハビビに譲りました。
第3代大統領:ユスフ・ハビビ(1998年-1999年)
本名:Bacharuddin Jusuf Habibie(バハルディン・ユスフ・ハビビ)
生年月日:1936年6月25日生まれ、2019年9月11日に83歳で死去
出身地:スラウェシ島 南スラウェシ州パレパレ
任期:1998年5月21日-1999年10月20日
政党:ゴルカル
副大統領:不在
配偶者:ハスリ・アイヌン・ベサリ
前職:ドイツ・航空機メーカーのメッサーシュミット副社長
西ドイツのアーヘン工科大学航空工学科で博士号取得したのち、ドイツのメッサーシュミットで副社長を務め、その後、インドネシアに帰国、
石油公社プルタミナの総裁補佐官、先端技術・航空工学担当大統領補佐官、研究技術担当国務大臣、バタム工業開発庁長官、技術評価応用庁長官、戦略産業庁長官
などを歴任し、同国の先端技術育成部門での地位を確立しました。
エリート中のエリートと言ったところですね。
そんなハビビが大統領に就任し、矢継ぎ早に結社の自由や言論の自由を認める政策を打ち出しましたが、スハルトの弟分的なイメージを払拭することが出来ず、国民の支持を得られることは出来ませんでした。
元々、暫定政権とみる向きが強く、任期を終えたのちには選挙に勝利したアブドゥルラフマン・ワヒドに大統領の座を僅か1年5ヵ月で譲ることとなりました。
第4代大統領:アブドゥルラフマン・ワヒド(1999年-2001年)
本名:Abdurrahman Wahid(アブドゥルラフマン・ワヒド)
生年月日:1940年9月7日生まれ、2009年12月30日に69歳で死去
出身地:ジャカルタ
任期:1999年10月20日-2001年7月23日
政党:国民覚醒党
副大統領:メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ
配偶者:シンタ・ヌリヤ・ワヒド
前職:宗教指導者
先祖は500年前に福建省からやってきた華僑で、父は独立インドネシアの初代宗教大臣をつとめたワヒド・ハシムという、高名なイスラーム指導者(ウラマー)の息子として生まれます。
エジプトのアズハル大学や、イラクのバグダッド大学でイスラム法などを学び、伝統的なイスラーム世界の知的素養を身につけると同時に、西洋的な学問などにも分け隔てなく学んだそうです。
そのため、伝統的なイスラームに身を置きつつも、他宗教にも寛容で、様々な勢力との対話を積極的に行っていました。
大統領就任後はイスラエルを訪問したり、共産主義の解禁などを提言しましたが、これに対し、各政党やイスラーム諸勢力から反発を受け、連立政権の基盤も盤石なものではなかったため、2001年に大統領を罷免されました。
小話:事故や病気に悩まされた大統領
アブドゥルラフマン・ワヒド元大統領は1978年に起こしたバイク事故による左目の負傷や糖尿病を原因とする視力障害(糖尿病による合併症で両目ともほぼ失明状態)、1998年に脳卒中で倒れ、その後遺症などを患いながら執務に当たりました。
第5代大統領:メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ(2001年-2004年)
本名:Diah Permata Megawati Setiawati Sukarnoputri(メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ)
生年月日:1947年1月23日生まれ、現在73歳(2020年時点)
出身地:ジョグジャカルタ
任期:2001年7月23日-2004年10月20日
政党:闘争民主党
副大統領:ハムザ・ハズ
配偶者:
Surindro Supjarso
(1968年結婚、1970年死別)
Hassan Gamal Ahmad Hassan
(1972年結婚、1972年離婚)
Taufiq Kiemas
(1973年結婚、2013年死別)
前職:専業主婦
初代大統領のスカルノと第1夫人ファトマワティの長女として生まれます。
その後、前述の9月30日事件が起こりますが、その際に通っていたバンドンのパジャジャラン大学を中途退学しました。
1968年に空軍のパイロットと結婚するも、1971年に夫は事故死し、2人の子どもを抱えながらインドネシア大学で心理学を学ぶも中退しました。
その後、エジプト人外交官Hassan Gamal Ahmad Hassanとの結婚をするも、3ヵ月も経たないうちに宗教裁判所により無効を言い渡されました。
1973年に元学生運動家の実業家、タウフィック・キマスと2度目(実質3回目)の結婚をしました。
その後、しばらくの間は専業主婦として活動していましたが、1983年にインドネシア民主党のジャカルタ支部副部長を経て、1987年に国会議員に初当選、1999年2月に闘争民主党を旗揚げし、2001年に大統領に就任しました。
スハルト政権に反対する象徴的な人物が就任したことにより、当初は国民に広く歓迎されましたが、優柔不断、イデオロギーの欠如、対立を避ける、などの批判の声が上がるようになりました。
しかし、その柔和な態度が立法府、行政府、軍隊の関係を安定させ、より民主的な政府を作ることが出来ました。
しかし、2004年の大統領選ではユドヨノに敗れて退任しました。
第6代大統領:スシロ・バンバン・ユドヨノ(2004年-2014年)
本名:Susilo Bambang Yudhoyono(スシロ・バンバン・ユドヨノ)
生年月日:1949年4月5日生まれ、現在71歳(2020年時点)
出身地:東ジャワ州 パチタン
任期:2004年10月20日-2014年10月20日
政党:民主党
副大統領:モハマッド・ユスフ・カラ、ブディオノ
配偶者:アニ・ユドヨノ
前職:退役陸軍大将
1973年に陸軍士官学校を首席で卒業後、アメリカのウェブスター大学でMBAを取得
陸軍では、戦略予備軍の旅団長、地方軍管区司令官、国軍司令官副官などを歴任しました。
「陸軍きっての秀才」と言われ、将来を嘱望されていました。
1995年から1996年にかけて国連軍ボスニアヘルツェゴビナ停戦監視団で主席軍事オブザーバーを務めました。
そして、ハビビ政権では国防省のブレーンとして活躍したのち退役し、1999年のアブドゥルラフマン・ワヒド政権で鉱業エネルギー相として初入閣、その後も同政権で政治・治安担当調整相に就任してテロ対策を指揮し、それはメガワティ政権でも引き続き調整相として活躍しました。
そして2004年、メガワティと対立して辞任したのち、同年の大統領選に出馬し、大統領に就任しました。
テロ対策や汚職撲滅に力を入れ、ジャカルタを筆頭にインドネシアの治安を改善させました。
2009年の大統領選でも再びメガワティをやぶり再選します。
2014年に任期満了をもって退任いたしました。
災難続きの大統領
在任期間中、2つの大きな自然災害に見舞われました。
・2004年にスマトラ島沖地震の発生
これにより日本人37名を含む22万人の方々が亡くなりました。
・2010年にジョグジャカルタの霊峰ムラピ山の噴火
これにより322名の方々が亡くなりました。
第7代大統領:ジョコ・ウィドド(2014年-現在まで)
本名:Ir. H. Joko Widodo(ジョコ・ウィドド)
生年月日:1961年6月21日生まれ、現在58歳(2020年時点)
出身地:中部ジャワ州 スラカルタ
任期:2014年10月20日-現在まで
政党:闘争民主党
副大統領:モハマッド・ユスフ・カラ、マアルフ・アミン
配偶者:イリアナ・ウィドド
前職:起業家(家具製造輸出会社)
ジョコ大統領は大工の父親の元に生まれ、3度に渡り立ち退き処分を受けるほどの貧困家庭の中で育ちます。
貧困家庭の生徒を受け入れているティルトヨソ・ソロ第112小学校に入学しました。
そして、ガジャマダ大学の森林学部にて木材加工を学び、スマトラ島・アチェの木工業会社に就職するも、社風に馴染めず退職、叔父の勤める木材会社にて働きました。
その後、家具製造輸出会社を設立し、ヨーロッパ相手にビジネスをして順調に売り上げを伸ばしていきました。
一度、詐欺にあい倒産寸前まで追い込まれたそうですが、母親に3000万ルピアを借りて立て直した過去があるそうです。
2005年にスラカルタ市長、2012年にジョグジャカルタ特別州知事、と順調にキャリアアップをしていき、2014年に大統領に就任しました。
貧困家庭から大統領の座に上り詰めた、インドネシアンドリームを体現した形となりました。インドネシアの今太閤と言ったところでしょうか。
まとめ
インドネシアの友人が出来ると「なぜ日本はインドネシアを植民地支配したんだ?」、「何年間植民地支配したか知っているか?」などと質問される機会があります。
その度に、色々と考えさせられます。
日本人としてインドネシアで暮らす以上、必要最低限の両国の関係史や歴史・政治・経済・文化・宗教などを学んでおきたいと考えております。
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